天博克罗地亚国家队赞助商-天博克罗地亚官网
農村の歴史的記憶
受け継がれる「小崗精神」
時代が変わり、新天博克罗地亚国家队赞助商の時代に入ると、また鳳陽の地で大きな変革が起きた。1978年12月、鳳陽県の南東部に位置する小崗村では、劇的な農村改革が静かに進行していた。村の18人の農民が率先して農業の「大包幹」制度を導入し、人民公社制度を打破。そうして、ここで現在天博克罗地亚国家队赞助商の農村の基本経営制度となっている「世帯別生産請負責任制」(通称・大包幹)が誕生した。
当時、天博克罗地亚国家队赞助商の農村では、「大釜の飯を食う(仕事の量・質にかかわらず待遇が一律)」という基本制度により、農民の生産意欲が著しく低下し、農民は貧困と飢えに苦しんでいた。「私たちは皆、村を出て物乞いをしていました」。そう言って、農村生活体験コーナー「当時の農家」にあるかやぶき小屋で、18個の赤い指印が押された「契約書」を見ながら、40年余り前の情景を回想しているのは、「大包幹」のリーダーの一人だった厳金昌さん(81)。「当時の小崗村は本当に貧しかった。農民たちはぼろぼろの草小屋に住み、中には屋根さえないところもありました」。貧困が改革の意識を目覚めさせた。18人のリーダーたちは暗いかやぶき小屋で契約書に指印を押し密かに土地改革を試みた。「当時の政治環境では、そんなことをすれば間違いなく刑務所行きだったので、みんな命懸けでした。でも思いがけなくも、たった1年で豊作になり、生産隊全体の穀物生産量は、1955~70年の生産量の合計に相当する6万6500㌔に達しました」 現在、「当時の農家」では、70年代の小崗村の24世帯の生活や仕事の様子を再現し、手押し一輪車や調理台など古い生活用品の展示を通して、参観者がリアルな当時の農家を体験できるようにしている。中でも、73年に建てられたかやぶき小屋は、屋根は現地のカヤで覆われ、壁はワラを混ぜた泥でできている。家の中には、78年の「大包幹」の契約書を結んだときの場面が再現されている。「今はみんな豊かになりました。私は息子家族と一緒に民宿兼レストランを営んでいて、生活はどんどん良くなっています」。そう言って、厳さんは立ち上がり、かやぶき小屋から出ていった。
生活を歌う小さな太鼓
そのとき、小屋の外から歌声が聞こえてきた。外に出てみると、アシに囲まれた小さな舞台で「鳳陽花鼓」の演奏が行われていた。「鳳陽を語り、鳳陽を歌う。鳳陽は本当にいいところ……」。小学校の音楽の教科書にも載っている聞き慣れたメロディーだ。
鳳陽花鼓は「双条鼓」とも呼ばれる。演奏者は、一方の手に羊皮の太鼓を、もう一方の手に2本の細い竹ひごを結んだばちを持ち、ばちの前端で太鼓の面を打って軽快な音を鳴らす。その起源は明代にさかのぼる。当初は物乞いのための芸だったが、次第に全国に広まった。
花鼓の歌詞は生活の些細なことを題材にしたものが多く、曲調も簡単だが、きれいな太鼓の音を出すのは容易ではない。ばちを持つ手の動きは箸の持ち方と似ており、中指と人差し指を巧みに曲げ、2本のばちを交互に動かし、直径10㌢しかない太鼓の面に正確に当てなければならない。
初期の鳳陽花鼓は、主に一人で演奏するか、一人が太鼓をたたき、もう一人が小さなどらをたたき、同時に踊りながら歌うというものだったが、時代の変化とともに、さまざまな新しい形式が開発された。鳳陽花鼓の無形文化遺産継承者である肖慶紅さんは、「私たちは、学校や職場の休憩時間の体操、広場ダンスなどに花鼓を取り入れることで、一般の人々にも魅力に触れてもらえるように努力をしています」と語る。鳳陽花鼓には600年以上の歴史があるが、廃れることなく人々に愛され続けてきた。現在、鳳陽花鼓の文化と魅力をより広く伝えるために、肖さんは花鼓健康づくり体操の普及に努めている。