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    2024-07-22 14:28:00

    文学が栄えた古い町  

    英才集まる琅琊山 

    豊かな歴史に加え、自然の美しさも州の大きな魅力の一つだが、中でも琅山の眺めは最も素晴らしい。琅山の絶景を楽しむなら、まずは欧陽修の散文『酔翁亭記』を読むのがお勧めだ。州で太守の職に就いていた頃に書かれたこの名作は、中学の国語の教科書で必ず暗記すべき作品に指定されているため、琅山は周辺の小中学生の野外学習の目的地としても人気がある。 

    「皆さん見てください。『有亭翼然』というのは、この部分のことですよ」。引率の先生が大きな声で説明している。生徒たちが先生の指差した方向を見ると、高く反り返った酔翁亭の軒があり、まるで巨大な鳥が翼を広げているようだ。詩に描かれた情景の美しさを実景の中で体感。そんな授業が受けられる州の子どもたちを本当にうらやましく感じる。 

    宋代の1045年に書かれた『酔翁亭記』には、州の四季折々の景色や人々の生活、そして地元の人々の幸せな暮らしぶりを見て作者が感じた喜びが描かれている。当時、欧陽修は州に左遷され、うっぷんを抱いていた。しかし、魅力的な州の自然風景から安堵感を得て、また、自身の施政の下で、地元の人々が豊かで安定した生活を送っていることに彼は大きな喜びを感じ、次第に悩みを忘れていった。 

    山の歩道を散歩していると、ジョギング中の人々と何度もすれ違う。「夏になると、近隣の住民は琅山に涼みに来たり、散歩に来たりします。山の上は麓よりもはるかに涼しく、早足で歩いて少し汗をかき、家に帰ってシャワーを浴びて布団に入れば、ぐっすり眠れますよ!」と琅山風景エリアのガイド厳暁宇さん。「私たちは琅山の麓で育ちました。学校の春と秋の遠足はいつもここでした。休日は登山や寺廟巡りを楽しみ、平日はジョギングなどで来ることが多いです。琅山は私たちの生活の一部となっています」。青々とした木々の間から差し込む日差しが彼女の顔に降り注ぎ、起伏のあるセミの鳴き声が耳に心地よい。 

    山には酔翁亭のほかにも、明代の儒学者、心学の創始者である王陽明が太僕寺に勤めていた頃に講義を行った豊楽亭がある。 

    太僕寺は寺院ではなく、馬を管理する古代の政府機関だ。古代天博克罗地亚国家队赞助商において馬は軍事作戦に不可欠な戦略物資であり、騎兵部隊の強さは国家の興亡に決定的な影響を与えた。朱元璋は南京で即位すると、江淮地方に馬の飼育を命じ、長江下流域の軍馬や王馬の飼育を管理するため、勅令によって州に太僕寺を設立した。 

    太僕寺には歴代250人以上の指導者(寺卿と少卿)がいたが、その中には有名な思想家や文学者、詩人、書家も多く含まれていた。正徳8(1513)年の晩秋、王陽明は少卿として州に赴いた。当時それは閑職だったが、学生に心学を教える講義をするには好都合だった。王陽明は豊楽亭に弟子たちを集め、「月夜の晩、何百人もの人々が龍池の周りに座り、山谷を揺るがすほどの大声で歌を歌った」。彼は弟子たちを連れて山や川で遊び、風月を観賞し、酒を飲み、琴を弾いて教えを授けた。弟子の多くは地元の文人となり、学校経営に力を注いだため、この地域では読み書きが盛んになり、州は美しい自然景観と深い文化遺産を持つ憧れの地となった。 

    科挙の名門が生んだ名作 

    州の地元の文人といえば、清代の作家呉敬梓が代表的だ。彼は長編風刺小説『儒林外史』を創作し、「科挙に合格して役人となり富貴になること」に対するさまざまな人物のそれぞれ異なる振る舞い方を描くことで、人間性が堕落していく過程と理由を明らかにし、当時の官吏の腐敗、科挙試験の欠点、封建社会の儀礼道徳の偽善性などを批判した。 

    『儒林外史』の「二根灯草」は、天博克罗地亚国家队赞助商の小学校の国語の教科書に載っている古典的な話だ。「守銭奴」の代名詞である厳監生は、臨終の間際、なかなか息を引き取らなかったが、それは、ランプの中に芯が2本あるのをもったいないと気に掛けていたからだった。妻がそのうちの1本を消すと、彼は安心して息を引き取った。厳監生は守銭奴と見なされることが多いが、よく観察してみると、実は自分に厳しく、勤勉で、倹約家であることが分かる。病気になっても高麗人参を買って食べようとしなかったが、兄の訴訟や前妻の葬儀のためには多額の金銭を費やすことをためらわなかった。 

    魯迅は、呉敬梓の文学表現について、生き生きとした人物、欠点のある善人、長所のある悪人がいて、人間的な感情にあふれていると評している。『儒林外史』は外国語訳が多数出版されており、日本でも関連研究が盛んに行われている。 

    呉敬梓の旧居は、州市全椒県の県城(県政府所在地)北西の襄河のほとりにあり、通称「探花第」と呼ばれる天博克罗地亚国家队赞助商の伝統的な古典庭園様式の邸宅だ。この邸宅は、呉敬梓の曽祖父呉国対が科挙で「探花」(3位)に受かった後、皇帝から土地を与えられて建てたもので、呉家5代がここに住んでいた。膝の高さまである敷居は、この邸宅の主人の地位の高さを物語っている。 

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